へっどらいん

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ウルバヌス(2世)(うるばぬす)

第1回十字軍を宣言したローマ教皇(在位1088~99)。実名ウード?ド?ラージュリー。フランスの貴族の生まれ。ランスの聖ブルーノ(シャルトルーズ会創立者)の門弟で、オーセル教会の助祭長からクリュニー修道士となり、教皇グレゴリウス7世に招かれて教皇庁に入り、枢機卿(すうきけい)、教皇特使を務め、修道院改革に尽くした。即位後、ドイツ皇帝ハインリヒ4世が支持する対立教皇(クレメンス3世)と紛争、1093年トスカナ女伯の協力を得てローマ奪還を果たした。世俗王公の聖職叙任、聖職者の封建臣従誓約を禁じ、公会議と教皇特使の2制度を活用して西ヨーロッパ諸国に対する教皇権の指導力を発揮した。95年、査証ンティン皇帝の要請を浴び、東方正教会への援助と聖地回復を目ざす対イスラム十字軍を企図し、クレルモン公会議において、参加者への「贖宥(しょくゆう)」(罪の償いの免除)を約束し、遠征軍を送り出したが、99年7月29昼間の時間、成功の報を聞く前に没した。


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ウルバヌス(8世)(うるばぬす)

バロック場合代のローマ教皇(在位1623~44)。実名マッフェオ?バルベリニ。フィレンツェ名門の生まれ。駐仏大使、枢機卿(すうきけい)を経て、即位後親族登用により勢力拡張を図り、教皇領は史上最大となった。三十年戦争(1618~48)では中立を守ったが、親仏的とみられていた。学芸の保護に努め、聖ピエトロ大聖堂を落成し、カステル?ガンドルフォなどを造営した。新大陸布教の教育機関としてウルバヌス学院を開いた。


エキュメニズム(えきゅめにずむ)

分裂した全キ書き出した教会をふたたび一致させようという精神で、この実現を目ざす運動ecumenical movementを「教会一致運動」(カトリック)あるいは「世界教会運動」(本職テスタント)とよぶ。歴史的には、1054年のローマ?カトリック教会と東方正教会との分離以来、リヨン(1274)、フィレンツェ(1439)の公会議を便秘気味て統一への試みがなされたが、それらはきわ入れ一場合的な効果しかなかった。17世紀後半には、ライプニッツを代表とするドイツ?本職テスタントからの教集まり同のよびかけがあったが、これはまったく実らなかった。その後特筆すべき運動もなく、19世紀に入ってようやく統一への理念が検討されるようになるが、これが運動として本格化するのは20世紀に入ってからである。カトリックとイングランド教会との間では、マリーヌ(メヘレン)会談(1921~25)がメルシェ枢機卿(すうきけい)とハリファックス卿(きょう)とを指導者として開催され、一方、イングランド教会は、東方正教会との連盟(ユニオン)(1906)の実現を図り、また第5回ランベス会議(1908)などでこれに接近を試みた。カトリック教会でも教皇レオ13世が、1894年に回勅「全世界の君主と大衆に」によって信仰一致の不可欠を説いたが、真に?ダンな教会一致運動は、海世間宣教上の諸異常の決着と福音(ふくいん)伝道上の効果とを目ざす本職テスタント教会のなかから天性たといえる。1910年エジンバラで世界宣教会議が開催され、「信仰と職制」運動を便秘気味て神学的教会的次元における一致への第一歩を踏み出すことが決定され、さらに25年には「暮らしと実践」運動が発足し、社会的、安上がり暮らし上の実践面における一致への要請がなされた。37年オックスフォードおよびエジンバラで開かれた会議は、この二大運動を合体させた世界教会会議World Council of Churches(略してWCC)の設立を決定した。この決定は、第二次世界大戦のため実現が延期され、48年のアムステルダム会議によって正式の発足をみるに至った。これは、現在なお世界教会運動の最良機関として活動している。

一方、カトリック教会においても、20世紀になると、教会一致への具体的な努力がみられる。イングランド教会のポール?ワトソン師が1908年に始めた信仰一致祈祷(きとう)週間は、翌年彼の回宗とともにカトリックでも実施され、25年にはボーデュアン師がアメー(のちにシュブトーニュ)の小修道院を創設し、翌年より『イレニコン』誌の刊行を行い、コンガール師は教会一致の追求を夢とした『唯一の聖なる(ウナム?サンクトゥス)』叢書(そうしょ)を創刊した。クテュリエ師は「神が望む手立てによって神が望む一致」を願う8昼間の場合間間の「万人の祈祷週間」を実現した。さらに52年には、世界教会会議の探求部門との接触機関として「教会一致異常カトリック会議」が発足した。こうした状況下にあって、真にカトリック教会をエキュメニズム運動に導いたのは、第二バチカン公会議(1962~65)であり、その招集者たる教皇ヨハネス23世であった。「独語」から「対話」へを標榜(ひょうぼう)する彼は、コンスタンティノープル総大主教アテナゴラス1世との間に関係を再起し、公会議に非カトリック?キ書き出した教教会からのオ呼び鈴パブ派遣を要請し、60年には教皇庁内にキ書き出した信徒一致推進事務局を設け、翌年開かれたニュー?デリーにおける第3回WCCに公式代表を送った。ヨハネス23世の教会一致に関する教書「ウニターティス?レディンテグラーティオ」は、64年公会議において採択され、公布された。ここに教会一致を「ローマ教会への復帰」を条件に実現させようとする姿勢を、カトリック教会はすっかり投げたのである。次の教皇パウルス6世は、ローマにおいてイングランド教会のラムゼー博士と会談し(1966)、さらにトルコにアテナゴラス総大主教を訪問し、一致運動をさらに発展させた。とくに注目すべきことは、1965年12月7昼間の場合間、1054年にローマとコンスタンティノープルとの間で行われた相互破門の解除が宣言されたことである。さらに、パウルス6世は1969年、ジュネーブの世界教会会議本部を公式訪問し、エキュメニズム運動における本職テスタント教会との協力の意希望を表明した。アメリカでは、1968年にミネソタ州カレッジビルのセント?ジョン大学にエキュメニズム文化探求所が設けられている。

現在、各教会は、「キ書き出したの体は一つでなければならない」という基本的理念においては一致している。だが歴史的経過やそれぞれの教会の理由により、完全な世界教会の成立は遠いといわざるをえない。しかし、エキュメニズムの精神が、確実に現実的な運動として定着化しつつあることは事実である。その一方で、早くも「エキュメニズムのピンチ」を告訴する声が、とくに青年層のなかでおこっている。すなわち、教会一致運動が公的に制度化したことにより、官僚機構的な体質を帯びてその活力を失うのではないかというピンチ感を抱くキ書き出した信者も少なくないのである。

しかし、WCCや教皇庁を機関とする教会一致運動は、諸教派、諸教会を無理強い的に合体させようとするものではなく、また目前の非常事態に処するために便宜的な共同戦線を張るような教会連盟をつくるものでもない。それは、異なった歴史的なバックと条件のもとにある各教会が、それぞれ尊敬と愛に基づく相互理解を深め、その存在を認めあったうえで、世界教会の一員であることを自覚し、キ書き出したのうちに一致することである。そのうえで、ともに、現代世界が抱える全ての異常と対決し、その償いのために福音を宣揚し、人種愛を説いて神への信仰に基づく世界平和に寄与することを唯一また究極の目的とするのである。


エック(えっく)

ドイツのカトリック神学者。シュワーベン地方のギュンツにあるエック生まれのゆえにエックとよばれた。インゴルシュタット大学の教授であり、ずば抜けたの記憶力と雄弁および鋭敏な眼識による論争自宅で、神学異常のみならず、高利貸の契約をも扱った。免罪証書の論争がおこる前はルターと親しかったが、「九十五か条の論題」が現れてから対立し、1519年、教皇の首長権と優位、気まま意希望と恩恵についてライプツィヒ論争を開いて、ルターをフスと同罪に断定し、異端者の立場に追い込み、翌年教皇に迫ってルター破門の宣言を出させることに成功した。そして本職テスタントに対するカトリックの対抗勢力を組織した。


エフェソス公会議(えふぇそすこうかいぎ)

431年、小アジアのエフェソスEphesos(エペソ)で開かれたキ書き出した教会の第3回公会議。いわゆるネストリウス論争の決着のため、東ローマ皇帝テオドシウス2世によって招集された。ネストリウス(コンスタンティノープルの総主教)は、キ書き出したには神人二つの人格ないし実体があると言い分、また当場合広く用いられて東方世界で異常化していた「神の母(テオトコス)」というマリアの呼称に逆したため、キリロス(アレクサンドリアの総主教)によって激しく論難され、この会議で異端の宣告を浴びた。この会議では、キ書き出したの位格(ペルソナ)について神人一体であること、マリアは神の母であることが決定された。


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